メキシコシティ・オリンピック 後 のチャスラフスカ選手

メキシコから帰国後、 チャスラフスカをはじめとする「二千語宣言」署名の非撤回組は弾圧を受けた。彼女は母国の英雄でありながらまともな職業に就けないという残酷な仕打ちを受けていた。1979年から3年間政府の許可が下りてメキシコに滞在し体操コーチとして働いた事があったが、状況の改善は再び改革派が息を吹き返す1998年の「ビロード」革命迄続いた。この革命のきっかけとなったのは、1985年ソ連共産党ゴルバチョフ書記長が提案した「ペレストロイカ(再構築)」である。その後東欧諸国で民主化が進み、1989年11月9日東西冷戦構造の象徴であったベルリンの壁がついに崩壊し、直後チェコスロバキアで「ビロード革命」が起こった。1993年チェコスロバキアの連邦制が廃止され、ハベルは初代チョコ大統領に就任した。この新大統領の下でチャスラフスカ選手は復権を遂げ、大統領顧問、チェコオリンピック委員会会長などの要職を歴任した。1996年ンには国際オリンピック委員会(IOC)委員にも就任した。

女子の体操は技術に重きが置かれる競技へと変貌し、選手は低年齢化していった。今やチャスラフスカ選手やクチンスカヤ選手のような業に加えて優美な女性らしい演技を行う体操は過去の映像を通して目にすることが出来るだけである。

チャスラフスカ選手は、2017年8月74年の生涯を閉じた。彼女は「日本人に最も愛された外国選手」として私たちの心に生き続けるでしょう。

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株式会社フォート・キシモト顧問、スポーツ庁スポーツ・デジタル・アオカイブ構想調査研究会議委員 松原茂章氏の「ベラ・チャスラフスカ 日本人の心に残る東京大会の名花」より引用させていただきました。