東京オリンピック

7月中旬頃から始まる東京オリンピックに関する私の遠い思い出を

書きたいと思います。

1964年(昭和39年)今から57年前の出来事です。当時の東竜太郎都知事

s39年のオリンピックが東京開催に決まった事を誇らしげに私たち国民に

告げ知らせる新聞のビックニュースから始まり、十月のオリンピック開幕

が近づくにつれ、町全体が何やら沸き立つような、華やいだ気分に覆われ

た、その空気感を今でもありありと覚えています。

国道246号線の渋谷・宮益坂辺りから世田谷三軒茶屋当たり辺の道路の真ん中に

プランタンに植えられた各花々が隙間なく?びっしりと並べられていました。

(それ以外の246号線の個所ではどうなっていたか知りません。私は行ったことがないものですから)バスで渋谷に行き帰りの時に存分に楽しませていただいたのです。

 主な選手村としてかつてのワシントンハイツが決まり、私の家の道路一つ隔てた

東京学――大学(当時既に大学は小金井に移転し、付属の高校だけが残っていました

全国区・共学・進学校として有名でしたが、むしろその伸び伸びとした学校生活に拍手する大人の方が多かったように思われました)も選手村の一つとなった様でオリンピック期間中、朝6,7時ころから「アテンションプリーズアテンションプリーズ」と繰り返し流れて、賑やかございましたよ。(後でウイキペディアで調べましたら、選手村に上がっていませんでしたが、私としては、選手村だという事を耳で聞きましたし、実際毎朝スピーカーで流れていました。代々木が近いし、駒沢オリンピック会場も行ってみれば目の先でしたし・・)。

 そうやって動き出したオリンピックでしたが、私自身は女子バレーボール以外大して関心はなかったです。チケットさえとろうとはしなかったし、ごみごみとした人中を

よく見えない選手の動きを追うなど考えただけでもかったるくなってしまいます・・。

 10月10日(土)午後開会式が始まりました。私はアルバイトをしており、半ドンで終わったその日、空はあくまでも青く、雲もなく秋晴れの最高に素晴らしい天候でした。

後によく引用されるNHK アナの「腕を伸ばせば真っ青に染まるかのような青空です」と絶叫した言葉通りのそれは見事な秋晴れの大空でした。その青空に航空自衛隊機による五輪のマークがくっきりと描き出されたのです。今こうやって感激的に書きますが、当時の私は、「おや、そうかい」と軽く思っただけでしたね・・・・。

 この感覚は、s38年高校三年生だった私が、当時はやっていた「高校三年生」という青春ソングを聞いても気恥ずかしくて、歌えなかったし、クラスでも歌っているのを聞いたのは一度ぐらいだったかな~。他の歌「いつでも夢を」とか「江梨子」等々はよく誰かさんが口ずさんでいましたが・・・・。

 6月に修学旅行で北海道に行ったとき、その後何か月してから、流行った「修学旅行」とか、その作詞通りの世界が広がっていたのを、今になって考え深く思い出すのです。ああ、詩人の感性はなんと素晴らしいものであることか!もう脱帽しかありません。・・・・・・・

 私が印象深く残っているのは、国鉄千駄ヶ谷駅近辺の様子です。当時私は駅前の津田英語塾という英語塾に行っていました(出来の悪い英語を補強するためです)。

塾の行き帰りに目にする光景、駅前の東京都体育館(当時)前の広場には、各国の国旗が掲げられており、人も車もひっきりなしに行き交い、騒がしくはない・華やいだ活気が周囲に満ち溢れていました。そこに居た誰もが高揚した気持ちだったと私は思います。日本が高度成長を遂げる活力に溢れた時代を告げる先陣の一大イベントであった。と私は思います。

 

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