東京オリンピック-- 2

前回、タイトル名で記事を書こうとしていたのに、書きそびれて、失礼しました。

女子バレーボール以外、あまり関心がなかったと書きましたが、東京の名花と謳われた女子体操のチャスラフスカ選手、マラソンの円谷選手、名場面は沢山ありましたが、これは是非とも書きたいと思うのは、東洋の魔女と讃えられていた女子バレーです。ソ連(当時)との決勝戦で幾度もの金メダルポイントで何度も何度も繰り返しボールを弾き返され、ひやひやドキドキの末に、やっとのことでソ連を下して金メダルを獲得したあの瞬間、それは感動モノでしたが、私にとっては、その二年前1962年の世界選手権でソ連を下し、優勝したあの時、週刊誌を飾ったあの場面・・・。当時高校二年だった私は、私たちは、クラス皆で熱狂しました・・・。ワーイ、ワーイ、ソ連を破ったんだ、打ち負かしたんだ・・・。あの喜びようは日本国中凄かったですね・・・・。大きな大きな勇気を日本国中にもたらしてくれました。大松博文監督と河西主将始め選手の皆さんに感謝です。

余談も付け加えさせて下さいませ。それから5~6年経った頃でしょうか?

私達女きょうだい4人が渋谷に出るため、東〇線・学〇大学駅までそぞろ歩きしていると、私の家から7~8分の所で偶然大松監督と思しき人とご家族?だかお知り合いの方々が道路に出ているのに出くわしました。エッ、大松監督こんなところに住んでいらしたの?彼はタキシードの正装でした。多分結婚式にでも招かれたのでしょうか?私たちは嬉しくて笑って目礼を交わしました。あの憧れの大松監督よ~。本当なの?彼も微笑んでおりました。小柄な方のイメージでしたが実際はかなり背が高く(170位?当時は高い方でしたよ!)精悍で品のある美丈夫とお見受けしました。(ウイキペディアでググってみましたが、色白の美少年が写っていました)。でも何か気だるい、何してようか分からない、虚脱感のようなものをお持ちの印象を私は受けました。あくまでも私の主観ですが・・・。その後何年も経って、彼が南方戦線インパールに参戦された極少ない生還者であったことを知り、鬼の大松の監督ぶり、オリンピックで金メダルに輝いた時も何故か歓喜なさらなかった事などを思い合わせると、腑に落ちたのです。

復員してからずっと彼の心には戦友や、理不尽な戦争のことが片時も忘れることはなかったであろうという事、だからこそあそこ迄やり遂げることが出来たという事が私なりに分かった次第です。

オリンピック100人の伝説 東洋の魔女 女子バレーボールチーム

東洋の魔女 日本 VS ソ連  女子バレー (64`東京五輪

64年東京五輪 五輪の輪